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尊王攘夷とは?尊王論と攘夷論を小学生にもわかりやすく解説|幕末ワードそんのうじょういって一体なに?

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尊王攘夷
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WEBデザイナー×トラベルライター×秘書 大切なことは全て遊びながら学ぶ!人生楽しんだもん勝ち家族の取り組みを発信している、人の目を気にするくせに縛られるのが苦手な寂しがり屋の自由人ASAMIです。
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遊学旅行のゆかりの地巡りが100倍楽しくなるように、歴史をご紹介しているこのコーナー!

今回は、幕末から明治維新にかけて知るには絶対に理解しておきたいワードの1つ尊王攘夷そんのうじょういについて小学生にもわかりやすく解説してみました!

尊王論そんのうろんとは?

尊王論そんのうろんとは、もともと中国の“王を尊敬する”という考え方です。日本にとっての“王”は、天皇を意味しており、尊王論とは『天皇を尊敬する』という考え方のことを言います。

江戸時代中期から学者の間では日本史や神道の研究が進み、次第に武士たちにも広まっていきました。そして自分たちの祖先を天皇家の一族に結びつける風潮に発展し、いつしか天皇を尊敬する尊王論が広まっていったのです。

そして幕府の政治に不信感を募らせた人達を中心に、尊王論は幕府批判へと変わっていきます。

更に尊王論は、水戸学と結びつき、幕府を脅かす存在となっていきます。

水戸学とは政治思想学問の1つで、儒学思想を中心に、国学・史学・神道を結合させた学問です。吉田松陰や西郷隆盛をはじめ多くの幕末の志士達に多大な感化をもたらし、明治維新の原動力となった学問でもあります。

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最初は幕府も、過激な尊王論を唱える者を取り締まりましたが、幕府自身も形の上では朝廷を尊敬する態度をとっていたので、尊王論を強く否定はできる立場ではありませんでした。

尊王論に火が付く!黒船来航と幕府の失墜

1853年にペリーが来航すると、対応に困った幕府は尊王論を利用して“徳川家はあくまでも天皇から政治を任されているだけで、日本の最高権力者は天皇である”という態度をとります。

日米修好通商条約にちべいしゅうこうつうしょうじょうやくを結ぶかどうかという問題が起こった時も、幕府は天皇に条約調印の許可を求めましたが、外国人嫌いの孝明天皇は許可を出しませんでした。

ですが許可されなかったにも関わらず、幕府の大老、井伊直弼いいなおすけは自己判断で日米修好通商条約にちべいしゅうこうつうしょうじょうやくを締結していました。そして井伊直弼いいなおすけに反対した大名や志士達を厳しく処罰しました。

この処罰を安政あんせい大獄たいごくと言います。吉田松陰をはじめ多くの志士を投獄・処刑し、水戸藩の重鎮が謹慎処分や死罪となりました。

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こうした強引な幕府の態度に、尊王論を唱える者達が激怒!1860年3月3日に井伊直弼は江戸城の目の前で水戸藩を脱藩した浪士達に暗殺されました。

この暗殺を桜田門外の変さくらだもんがいのへんと言います。この桜田門外の変をきっかけに、幕府の権威はますます落ち、変わって薩摩藩や長州藩が力を伸ばしていきます。

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そして同時に、次に解説する攘夷論と合体して尊王攘夷論という考え方に発展していったのです。

攘夷論じょういろんとは?

攘夷論じょういろんとは、もともと中国の“国から夷人いじん(外国人)を追い払うべきだ”という考え方です。

日本は約215年間続いた鎖国のためもあって「外国人は汚らわしい者」という偏った考え方も生まれていました。また一部の知識人達は、日本が外国に侵略されるのではないかという危機感も抱いていました。

そのために外国人を武力で追い返そうというのが攘夷論です。

1700年の後半、外国船が日本の近海に現れるようになると、日本各地で攘夷論が主張されるようになります。その中でも孝明天皇こうめいてんのうは外国人を嫌っていて、幕府にも強く攘夷を望んでいました。

ですが結局、外国の圧力におされる形で、幕府は日米和親条約にちべいわしんじょうやく日米修好通商条約にちべいしゅうこうつうしょうじょうやくを結び開国します。

こうした幕府の態度に、攘夷論を唱える者達が激怒!

そして次に解説する尊王攘夷論という考え方に発展していったのです。

尊王攘夷論そんのうじょういろんとは?

幕府の態度に“天皇を尊敬する尊王論”と“外国人を日本から追い払えと主張する攘夷論”が次第に結びつき、尊王攘夷論となり発展していきました。

中でも尊王攘夷を藩の意見としていたのが、長州藩でした。

ですが1864年の下関戦争で長州は西洋諸国に圧倒的な軍事力の差を見せつけられ大敗!攘夷が不可能だと思い知らされると、長州藩はその矛先を幕府に写し、尊王攘夷論は倒幕のための考え方として唱えられるようになっていきました。

この長州藩の先頭に立って倒幕に方向付けたのが、自ら奇兵隊をつくった高杉晋作でした。

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まとめ

尊王攘夷論がどういうものか、理解できましたでしょうか?

この後に、薩長同盟、そして戊辰戦争へと繋がっていくのですが、それは別ページで解説したいと思います。

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この時代は目まぐるしく時代が動いた時代なので、色々な登場人物や事件が起こりますが、歴史的背景を知りながら覚えていくと理解できてくると思います。

そしれこれらが理解できると日本各地の遊学旅行が100倍楽しくなります♡その為に大切なワードをご紹介していきますので、是非覚えてくださいね^ ^

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