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【必見】伊達政宗ってどんな人?ゆかりの地観光が100倍楽しくなる政宗の全て

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WEBデザイナー×トラベルライター×秘書 大切なことは全て遊びながら学ぶ!人生楽しんだもん勝ち家族の取り組みを発信している、人の目を気にするくせに縛られるのが苦手な寂しがり屋の自由人ASAMIです。
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遊学旅行のゆかりの地巡りが100倍楽しくなるように、歴史をご紹介しているこのコーナー!

今回は、戦国時代に活躍した戦国武将!天下に迫った奥州の独眼竜と呼ばれる「伊達政宗だてまさむね」の70年の生涯を、小学生にもわかりやすくご紹介したいと思います^ ^

これを学べば、伊達政宗のゆかりの地巡りが100倍楽しくなること間違いなしです♡

伊達政宗の歴史年表

伊達政宗 肖像画

この肖像画は、仙台市博物館に所蔵されている正装した伊達政宗です。1676(延宝4)年に建てられた伊達家をまつるお堂に掲げるために狩野派の絵師が描いたものとか。

政宗は幼いころ右目を失明しましたが「像を描くときには両目が整った姿にするように」と遺言をしたため、描かれています。

西暦 年齢 出来事
1567年 1歳 山形県の米沢城主・伊達輝宗の長男として誕生
1571年 5歳 天然痘てんねんとうにかかって、右目の視力を失う
1575年 9歳 片倉小十郎が守役となり、武芸を教えられる
1579年 13歳 愛姫と結婚する
1581年 15歳 初陣で見事勝利!周辺の戦国大名の間で評判となる
1584年 18歳 伊達家の当主となる
1585年 19歳 小手森城おでもりじょうの戦い
1589年 23歳 摺上原すりあげはらの戦い
1590年 24歳 政宗毒殺未遂事件、弟の小次郎を殺す
小田原城の戦いで豊臣秀吉となる
奥州仕置が始まり、政宗が攻め取った領地が没収される
1592年 26歳 朝鮮出兵に参加、文禄の役
1600年 34歳 白石城の戦い
1601年 35歳 仙台城を築き本拠地とする
1614年 48歳 大坂冬の陣
1615年 49歳 大坂夏の陣で真田幸村と直接対決をする
1632年 66歳 将軍 徳川家光に遣える
1636年 70歳 江戸屋病死する

伊達政宗だてまさむねはどんな人?歴史に名を刻んだ出来事・事件・キーワード

戦国時代に天下に迫った奥州の独眼竜と呼ばれてきた伊達政宗はどんな人だったのか。特に歴史に名を刻んできた出来事・事件・キーワードをご紹介します!

1、独眼竜|伊達政宗はどんな人

伊達政宗は5歳の時に、当時は死の病とされていた天然痘てんねんとうという病気になり数日間高熱で苦しみます。運よく命は助かったものの、天然痘の毒が右目に入り、失明してしまいました。

右目を失い劣等感に苦しんだ伊達政宗でしたが、禅宗ぜんしゅうの優れた僧として知られていた虎哉宗乙こさいそういつという男が教育係に選ばれました。

虎哉宗乙こさいそういつは、政宗を積極的にさせるために、唐(中国)の時代に活躍した武将李克用りこくようの話を聞かせたそうです。

李克用りこくようは片目が不自由だったにも関わらず、いつも勇敢に戦い勝利していた凄い武将で「独眼竜どくがんりゅう」と呼ばれ敵から恐れられていたんだとか!

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自分と同じように目が不自由でも英雄として尊敬を集めた武将がいたことを知った政宗は、自分も努力すれば優れた武将に慣れると感じ、少しずつ積極的になっていいきました。

そんな李克用りこくように憧れ、政宗も自分自身を「独眼竜」と呼び、広まっていったとされています。

2、奥州統一を成し遂げる!天下統一を目指した奥州(東北)の覇者|伊達政宗はどんな人

伊達政宗は、天下争いの戦が盛んだった戦国時代に奥州を統一した武将です!

奥州は、別名陸奥むつとも言い、現在の福島・宮城・岩手・青森の4県と秋田県の一部にあたる場所です。

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政宗は15歳で初陣迎えて見事な戦いぶりで見事な勝利をおさめたのを最初に、19歳(1585年)では小手森城おでもりじょう(現:福島県二本松市)の戦いでは容赦無く敵を皆殺しして滅ぼすことを行動で示すなど、奥州の戦国大名達に衝撃を与える戦いをしていました。

奥州で兵だけじゃなく敵国の農民や女性・子供まで殺してしまう酷い戦い方をする人は、伊達政宗以外いなかったんだとか…

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時に同盟を結んで伊達家を滅ぼそうとする大名もいて苦戦しましたが、23歳(1589年)の摺上原すりあげはらの戦い(現:福島県磐梯町・猪苗代町)で会津の蘆名家あしなけを滅ぼすと、奥州の覇者となり、奥州統一を成し遂げました。

3、大阪夏の陣!真田幸村との戦いと秘話|伊達政宗はどんな人

豊臣家が滅亡した大阪夏の陣で、伊達政宗は秀吉の家臣だった真田幸村さなだゆきむらと最初で最後の戦いをしています。

伊達隊と真田隊は双方互いに譲らない激しい戦いだったそうです。途中で真田隊に退却命令が出て決着はつかなかったそうです。

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次の日、真田幸村は徳川の大軍の前に力尽きて戦士するのですが、実は前夜に衝撃的な出来事が起きていたのです。

なんと真田幸村は、伊達政宗に実の子どもの命を託したのです。

「政宗を頼れ」と父に言われ命からがら逃げてきた真田幸村の三女・阿梅おうめはその後、政宗の家臣片倉小十郎が守り、阿梅おうめはなんと小十郎の後妻にまでなっています!

4、仙台藩初代藩主|伊達政宗はどんな人

関ヶ原の戦い後、広大な領地を収めるために、これまでの本拠地・岩出山では不便だと感じていた政宗は、1601年1月(政宗が35歳のとき)に、青葉山に仙台城を築き始めます。

仙台城は断崖の上に本丸が築かれた山城で、高い石垣で囲まれた防御力の高い城だったのですが、戦いのない江戸時代では活躍の場面はなかったそうです。

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仙台城の建設とともに、政宗は城下町もつくり、商人達は今までの本拠地だった岩出山から町ぐるみで引っ越しています。他にも、京都などから腕の良い大工を呼び寄せ、仙台城内の建物を始め、陸奥国分寺や大崎八幡宮などの豪華な建築物を立てました。

伊達政宗は何歳まで生きた?

伊達政宗の最期は、戦国武将ながら討死ではなく、病死です!1636年5月24日に70年に渡る激動の生涯を静かに終えています。

晩年の政宗は3代将軍徳川家光から深く信頼され、特別な大名として扱われました。

なんと政宗は「天下の副将軍」と呼ばれていたそうです!戦いの経験のない家光は、政宗から戦の話を聞くのが好きだったとか。

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政宗は、見舞い客がきたら正装に着替えたり、家族には弱っているところを見られたくないと面会しなかったりと、亡くなる直前まで美意識を貫いたそうです。

江戸で亡くなった政宗の遺体は仙台まで運ばれて経ケ峯伊達家墓所 瑞鳳殿きょうがみねだてけぼしょ ずいほうでんに葬られました。

まとめ|伊達政宗ゆかりの地巡りへLet`s 遊学旅行

いかがでしたか?戦国時代に活躍した戦国武将!天下に迫った奥州の独眼竜と呼ばれる「伊達政宗だてまさむね」の70年の生涯は、わかりましたでしょうか?

  • 仙台城
  • 大崎八幡宮
  • 五大堂
  • 白石城
  • 人取橋古戦場
  • 岩出山城跡
  • 米沢城
  • 摺上原古戦場
  • 会津若松城

などなど、遊学旅行でも伊達政宗のゆかりの地巡りを色々と巡ってご紹介していきますので、是非参考にしてみてください!

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